EP-4
 EP-4 (佐藤 薫)

1980年に京都のニューウェイヴ系ディスコ「クラブ・モダーン」に集う佐藤薫らを中心に結成された伝説のエレクトリック・ファンクグループ。

20年以上の月日が経った2000年代後半辺りから、佐藤薫はリイシューやアーカイブ作業を進めていき、その作業が一段落した2012年、ついにEP-4を再始動することにしたというわけです。


初期の5・21のオリジナルはソノシートで、雑誌フールズメイトに付いていたソノシートでした。
 5.21騒動

1983年に「EP-4 5.21」というステッカーが都内各地にペタペタ貼られるゲリラ活動がテロの予告や政治集会かと誤解され話題となりました。


実際は5月21日にレコードをメジャーとインディーズからそれぞれリリース、そしてライブを3ヶ所で行うという計画予定でした。

ライブは京都、名古屋、東京で行われたが、メジャーからのものは発売延期となり、インディーズからのライブ盤『Multilevel Holarchy』のみの発売。

 EP-4

佐藤 薫
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佐藤薫インタビュー2012-05-19
http://www.webdice.jp/dice/detail/3518/

EP-4-dark ファンサイト
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 2010年8月15日 小暮秀夫氏 Notes

発掘されたテープに刻まれた、EP-4の記憶。EP-4を巡る私的風景史

Introduction

10代の頃、人は誰しもその後の人生に多大な影響を与えるアーティストとの出会いを果たす。団塊の世代ならそれはビートルズだろうし、筆者のように現在40代前半の人間なら、その代表格はYMOということになる。

そのような、いわゆる“テクノポップ/ニューウェイヴ世代”の人間にとって、EP-4は80年代ニューウェイヴ期に出現した他のどのアーティストとも違うオーラを放っていた。違う言い方をするなら、“やばい空気”が漂っていたのだ。うかつに触れたら、とりかえしのつかない方向(世間的には、反社会的と言われる方向)に足を踏み入れてしまうかのような、危険な空気が。本稿は、そんな“EP-4世代”の一人である筆者個人にとって、彼らがどのような存在であったかを綴っていこうというものだ。個人的な思い出話が中心となってしまうが、そこはご容赦いただきたい。


EP-4との出会い。そして5・21シールが届いた

今のようにネットで簡単に音に触れることなど夢のまた夢だった80年代、筆者は『宝島』などのサブカル誌や、日本のインディーズを紹介している一部の音楽誌などに掲載された文字情報や写真で、EP-4の存在を知った。YMOに影響されてテクノカットにし、YMO周辺の情報を漁っていた筆者にとってEP-4というのは、イベント「アーバン・シンクロニティ」で坂本龍一が共演したバンドとして既にアンテナにひっかかっていたし、リーダーの佐藤薫の名前は、坂本龍一のソロ・アルバム『左うでの夢』(81年)にヴァイオリンで参加していた人、もしくは坂本龍一も参加したタコのアルバムにも関わっていた人としてインプットされていた。しかしその時点でEP-4の作品は発表されておらず、しかも埼玉県の果て(利根川を越えると群馬県になるような田舎町)に住んでいた筆者には、都内で彼らのライヴに触れることも容易ではなかった。にもかかわらず、EP-4が妙に気になったのは、雑誌に掲載されている佐藤薫の写真からカリスマとしてのオーラがビンビンに伝わってきたからであり、そのオーラがYMO周辺のどのアーティストとも違っていたからに他ならない。

83年、いつものように目を皿のようにして『宝島』を熟読していた時のこと、興味深い記事が目に飛び込んできた。EP-4が「5・21プロジェクト」なるものを企画し、さらには「EP-4 5・21」と書かれただけの謎のステッカーが京都や大阪や東京など各都市にゲリラ的に貼りまくられている、というのだ。これは単なる宣伝活動ではない。背後に何かやばいものがあるのではないか。そう直感した筆者は、彼らのコンタクト先として記事の終わりに明記されていたスタック・オリエンテーション(これが彼らの単なる事務所ではなく企画団体であることを知るのは、もうちょっと先のことだ)に、勇気を出してある日手紙を送った。「EP-4に興味があるので、シールを送ってください」という文面と返信用切手を同封して。
数日後、学校から帰宅した筆者はポストを見て驚きの声をあげた。なんと、スタック・オリエンテーションから封筒が届いていたのだ。封筒の中に入っていたのは、「5・21ステッカー」の銀版と透明版がそれぞれシートで数十枚。「まだステッカーは大量にありますので、足りなければ、また切手をお送りください」という文面も添えられていた。

さっそく学校や図書館、普段の通学路などにステッカーを貼ったが、今にして思えば、自己満足以外のなにものでもない。社会問題化したレベルの宣伝活動に参加していたとは到底言えないお粗末なものだ。しかし彼らは田舎に住む一高校生のためにわざわざステッカーを送ってくれた。たとえいくらアーティストを好きになろうとも、自分はアーティスト・サイドから見たらしょせん“星の数ほどいるファンという砂の一粒”に過ぎない。しかしそんな砂粒の存在が初めて認められ、活動の末端に関わることが許された。
「5・21ステッカー」は、音楽シーン的にも社会的にも一大事件だったが、そういう意味で個人レベルにおいても大事件だったのだ。街中にステッカーを貼っている時、筆者は右翼団体やカルト宗教団体に入信した若者が布教活動している時の“何かに憑かれたようなキラキラした目”をしていたはずだ。純粋であるということはかくも脆く、簡単に洗脳されやすい。でもそれが特定の政治団体やカルト宗教組織でなく、EP-4で本当に良かったと思う。

筆者がEP-4の音に実際に触れたのは、「5・21」騒動から数ヶ月後の9月のこと。日本コロムビアから発売された『Lingua Franca-1』を、地元のレコード店で普通に買ったのだ。演歌やアイドル歌手のポスターが壁を占拠した小さなレコード屋の棚に、差し替えられた昭和大赦ジャケットが普通に置かれているという光景。それは、ジャケットに使用された藤原新也の写真が一見すると普通の家に見えて、実は浪人生・一柳展也が金属バットで両親を殺害した家を撮影したものであるという背景を知った途端に不気味に見えてくるのと同じように(それは、鬱屈した学生生活を送っていた筆者の心象風景でもあった!)、平和な日常生活に異化効果を生じさせる過激なテロ行為として映ったものだ。

スタック・オリエンテーションからはその後もEP-4に関する情報が手紙で届き、同封されたフライヤーをもとに、修学旅行で京都に行った際に新京極のユリナ・レコードで『Lingua Franca-X』を買ったのは良き思い出だ(店頭で、スタック・オリエンテーションが発行していた「3-B通信」というフリー・ペーパーも一緒に入手した!)。また、ニュー・ヨークからエアメールでEP-4のポストカード(家紋からインスパイアされた
EP-4の新ロゴがプリントされたもの)が突然届いて驚かされる、なんてこともあった。
EP-4のこうした活動は、今やアカデミックにいくらでも分析することが可能だ。いわゆるバンドとしての形態をとってはいるが、EP-4は単なる音楽家集団ではない。むしろ、政治結社/秘密結社的な危険な匂いを放つ“ストリートの革命家集団”である。しかも彼らの活動には、誰もが望めば参加する(=運動体の一構成員となる)ことが可能であった、等々……。

しかし、かつてEP-4という記号で覆い尽くされていた街も今や無意識な集団的自主規制のもとに無菌化され、すっかり無味乾燥なものと化してしまった。だからこそ筆者は、今再びEP-4を求める。あの危険な毒を、暗闇がなくなって均一化した精密な管理機構に撒きちらすこと。それこそが、かつて「5・21ステッカー」を貼っていた“EP-4に選ばれし少年(あなたのことだ)”が今しなければならないことではないだろうか。


EP-4の軌跡

申し訳ない。個人的な思い出話が長くなりすぎた。ここからは、EP-4に関する客観的データを書いていきたいと思う。

EP-4が結成されたのは、80年3月。京都の伝説のニューウェイヴ系ディスコ、クラブ・モダーンのプロデューサーであった佐藤薫がDJ、スタッフらと一緒に4人編成(ヴォイス、ギター、ベース、ドラム)の「お遊びバンド」をとあるイベントでやったのが、すべての始まりとされている。それを観に来ていたのが、現在はフランス文学者/翻訳家/作家として活躍する鈴木総(現:創士)。彼がキーボード担当として加入したことで、EP-4は産声をあげる。
その後、メンバーの脱退や加入を経て、82年5月にEP-4は鉄壁の6人編成となる。メンバーは以下の通り。

佐藤薫:ヴォイス
好機タツオ:ギター
佐久間コウ:ベース
三条通:ドラム
ユン・ツボタジ:パーカッション
川島バナナ:キーボード

ちなみに、鈴木総が脱退して川島バナナが加入するまでの空白期間に行なった伝説のイベント、アーバン・シンクロニティ(81年11月9日@京都会館別館ホール)において、キーボードでゲスト参加したのは、前述したように坂本龍一であった。このようにメジャー/マイナーといった対立構造を越えたポスト・モダンな角度から、EP-4は日本のストリート・ロック・シーン(=ストリート・カルチャーという現場)を独自に開拓していったのである。

83年3月には、ペヨトル工房からカセットブックの『制服・肉体・複製』をオフィシャル・ブートレグという形で発表。「5・21プロジェクト」決行日には、80〜83年のライヴ音源を佐藤薫が大胆かつ過激に編集した『Multilevel Holarchy』がテレグラフから発売されたものの、日本コロムビアより予定されていたスタジオ録音盤『Lingua Franca-1』は、ジャケットに使用した“昭和崩御”という文字が問題となって発売延期になってしまう。

『Lingua Franca-1』の発売延期に関し、当時は「“昭和崩御”というサブタイトルがレコ倫に触れた」と報じられた。だが実際は、佐藤薫がレコード会社の担当A&Rに内密のままジャケットを制作し、発売間際になって見せたところ“昭和崩御”という文字にビビッてしまい(レコード会社の中でもコロムビアは老舗に属する会社だったのでそれも当然なのだが…)、自主規制されてしまったというのが真相だ。結果的に『Lingua Franca-1』は、“昭和大赦”ジャケットに差し替えて9月1日にリリース。闇に葬られたかと思われたオリジナル・ジャケットも、『Lingua Franca-X』というジャケット・ブック(付録として12インチ・シングルがつけられた)の形態でペヨトル工房より9月25日にリリースされ、レコード会社が自主規制したものでも書籍流通であれば発売できてしまう構造矛盾を暴くこととなったのである。

その後EP-4はヨーロッパ・ツアーを敢行したり、ベルギーやオーストラリアのインディーズ・レーベルより12インチをリリースするなど、海外とコネクトした活動が目立つようになっていく。84年12月にはテレグラフより2曲入り12インチ・シングル『Found Tapes』を突如発売してファンを驚かせたのに続いて、翌85年5月21日にはWAVEレーベルより12インチ・シングルの『!e Crystal Monster』をリリース。WAVEレーベルは、国内外のインディーズ・レーベルの作品や情報がWAVEを介して往来するようなシステムを作るべく、佐藤薫が企画案を出して設立されたという背景を持っている。そして国内外のツアーや『Lingua Franca-2』のロンドン・レコーディングが予告されたにもかかわらず、87年発売のコンピレーション・アルバム『KYOTO NIGHT』への参加を最後に、EP-4はシーンから忽然と姿を消してしまうのである(メンバーは個々に音楽活動を展開してはいたが)。あたかも、政治犯が姿を隠すかのように。


発見されたテープ

EP- 4の活動の背景には、文化政治運動家としての戦略が一貫してあった(この側面に関しては
『Multilevel Holarchy』のCDのライナーで毛利嘉孝氏が考察されている。ぜひご一読を)。しかしその中において、85年12月にテレグラフからリリースされた2曲入り12インチ・シングル『Found Tapes』だけは、性質を異にしている。シチュアシオニスト的手法から解放された唯一の作品と言ってよい。
発表を前提とせずに録りためていたテープが発掘されたので、オーバーダビングとリミックスを施してリリースしてしまおう。本作は、そんな軽い動機から生まれた。

しかし、多くのEP-4ファンはそんな単純にはとらえなかった。
「この12インチ・シングルをお前の手でダンス・フロアで回せ」

ここには佐藤薫のそんなメッセージが隠されている、と解釈したのだ。事実、青春期にEP-4ファンであったことを公言するクラブDJやアーティストは多い(竹村延和やFPMの田中知之はその代表格)。また90年代に一世を風靡したトリップホップ(アブストラクト・ヒップホップ)のルーツとして、和物エレクトロ/クラブ・ジャズのコンピレーションに音源が収録されるなど、音の先鋭性の再評価作業もクラブ・カルチャー文脈の中では積極的に行われてきている。

今回はCD化に際し、新たに発掘された未発表テープからの音源を2曲、そして「5・21」のソノシート・ヴァージョンがボーナス・トラックとして加えられることになった。佐藤薫の意向のもとに決定した内容は、以下の通り。

1:Elementary Poem
EP-4の妹分的存在だった女性ニューウェイヴ・グループ、グリム・スキップのライヴ用カラオケとして制作された曲を発展させたもの。メンバーは通常の担当パートとは違う楽器を演奏し、最終的にバナナのメロトロンを被せて完成させたという。ダビーな音響空間の中で躍動するアブストラクト無国籍ファンク・ビートは、とてつもなく神秘的かつドラッギー!

2:Five to One
「5・21プロジェクト」のテーマともいうべき曲。バナナが買ったメロトロンで遊んでいるうちに何か重ねてみようということになり、できあがった曲のうちの一つとのこと。サイコ・ニュー・ウェイヴ・ファンク・ビートが炸裂した、まさしくEP-4の代表曲である。

3:Song of Shame! 4:Green Eyed Maureen
今回の目玉となる、完全未発表曲。新たに発掘されたカセット・テープの中から佐藤薫自らがセレクトした“ボーナス・ファウンド・トラックス”である。ちなみに『Multilevel Holarchy』のCDは、メンバー所有のレコードの中から最も素敵なノイズを発する盤を選んでマスタリングされたという。「Song Of Shame!」の歌詞は、佐藤薫とチコ・ヒゲのコラボレーション・シングルに収録された「le chantde la honte!」と同じもの。詩人・富永太郎が書いた「恥の歌」にインスパイアされた詩が歌われている(ただし、曲自体はまったく異なっている)。

5:5・21
音楽誌『フールズメイト』の83年6月号に付録ソノシートとしてつけられた、5・21プロジェクトの予告編ヴァージョン。「Five to One」をソノシート用にエディット&リミックスし、グリム・スキップのコーラス(というか、叫び声と「エ〜」「ウソ〜」といったつぶやき)が大胆にフィーチャーされている。84年7月、オーストラリアのホット・レコードからリリースされた12インチ『Five to One』(収録曲は「5・21」「dead Body(dB)」「Strangeness」「Appuk!(Zoy)」)には、こちらのヴァージョンが収録されていた。

ジャケットに使用されているのは、石の断面写真。フランスの社会学者/哲学者、ロジェ・カイヨワの著作『石が書く』(宇宙や地球の自然風景が石の断面に描かれている、という説が展開された美術書)に思惟を得て、このようなジャケットにしたのだという。確かに、音の記憶(歴史)が刻まれているという点で、レコードの盤面は石の断面に似ている。それらはまた、人によって発見されなければ存在し得ないという点においても。

Five to One

最後にEP-4の現在について触れておきたい。
残念なことに、メンバーの好機タツオさんと三条通さんは既に鬼籍に入った。合掌…。となると、EP-4が再び我々の前に姿を現すことはもう望めないのだろうか。今回、佐藤薫は未だEP-4の呪縛が解けずにいる人たちのために、このようなメッセージを寄せてくれた。
「EP-4はそれこそ都市伝説のように色々語られているけれど、実際には何かやろうと思うと必ず誰かが見あたらない。しかも今度は本当の喪失がやってきた。それが続いてるってことだよ。だからEP-4は解散もしてないし、活動も停止していない」

今回、音楽地層の中から発掘されたEP-4の音は、化石でも遺物でもなかった。これは“新たな5・21”に向けての布石なのだ。リマスタリングされた音源を聴きながら、筆者は実家のポストに「5・21ステッカー」が大量に届いた日と同じ興奮を再び味わっているところだ。

出典:http://www.eater.co.jp/dl/EP-4_found_tapes.pdf

 EP-4 5.21 Heritage Vdj Medley Mix (HD)

EP-4 5.21 Heritage Vdj Medley Mix (HD) from discoclub on Vimeo.